第 3842号2022.10.02
「朝の通学路」
洗濯男(ペンネーム)
マンション2階の我が家の前の坂道は近くの中学校の通学路になっている。毎 朝ベランダに出て洗濯ものを干す時に(わが家ではそれが私の役目です)大勢 の中学生男女が賑やかに、あるいは黙々と学校を目指すのが見下ろせる。 ある時、一人の女子生徒が目に留まった。上体を左右に揺らし、両手をグルグ ル回しながら坂道をゆっくり上って行く。 後ろから来た生徒にどんどん追い抜かれる。誰もその女生徒に声を掛けない。 最初は彼女がふざけながらお道化て歩いているのかと思ったが、よく見ると穿 いている黒い靴がやけに大きい。それに右足の脛だけが妙に細い。よく見ると それは義足だった。 それで合点がいった。頭や肩をぐらぐら揺らすのも右手と左手を水泳のクロー ルのように回転させるのも、身体全体のバランスをとるためなのだ。そうやっ て必死に坂道を登っているのだ。倒れそうになりながらも、授業開始の鐘が鳴 る前に学校に着くために、あと200mを頑張っているのだ。 顔の表情は見えない。ましてや彼女がどんな気持ちで坂道の傾斜に立ち向かっ ているのかは分かりやしない。友達はいるのだろうか。身体は満足に動かせな くても小説を読んだり絵を描いたりは出来そうだ。難しい数学が好きかも知れ ない。漫画を描くのが得意だ、きっと。今はパラスポーツが盛んになってきた。 車椅子テニス大会で優勝したかもしれない。いや1回戦で負けて悔し涙を流し たかな。もう60年前となる自分の中学生時代に思いを馳せながらいろいろ想像 してみる。 今朝も彼女が坂を上ってきた。相変わらず一人で身体を揺らし、両手を踊る ように頭上に上げる。何人もの生徒に追い抜かれる。坂を上りきった。後は校 門まで緩い下りだ。でも彼女は一休みもせずに進む。「ガンバレ!」と声を掛 けたくなったが、見知らぬオジサンが2階から大声を掛けたら、彼女の方が吃 驚するどころか恥ずかしがるだろうと思い、口の中でモゴモゴした。