第 3840号2022.09.18
「牡蠣フライ」
田口 正男
食欲の秋ともなれば、大好物の「牡蠣フライ」が目に浮かぶ。それも私をとり こにする都内の老舗レストラン地階レストラン「S」の味は絶品である。この レストランは作家や文化人にも人気がある。 私が社会人になって叔父から紹介され、この店の「牡蠣フライ」の味を知っ た。その時初めて食べた絶品の味に、「これは旨い」と感激した。以来昼時に は友人知人を誘い、この店の味を自慢して回った。 この店の定番メニューとして、一日二十食限りというこだわりが食通仲間の人 気を煽って売り切れの日も珍しくない。志摩の「的矢牡蠣」を毎日産直仕入れ するこだわりが物をいうらしい。 馴染みのウエイターにオーダーする。待ち兼ねた「牡蠣フライ」が湯気を立て、 運ばれてくる。ふっくらと揚がった大粒のフライをフォークの先で捕え、 急いで頬張る。さくっと噛むと、にじみ出てくる肉汁がじわっと舌先から伝わ ってくる。私は絶妙な味に「うーん」と、しびれてしまう。この店の常連とな ってからせっせと通う内に、妙な噂を耳にした。早速支配人を呼び付け、事情 を訊く。何でもオーナーの意向で、効率の悪い職人は使えないとリストラされ たと言う。 絶品の味を誇るこの店の「牡蠣フライ」は日毎に人気が薄れていった。やはり マニュアル育ちのコックの味では、客の満足が得られなかったようだ。 あれほど夢中にさせたこの店の味も、私を失望させるだけであった。近頃では 鍛え抜かれたプロの技と味は薄れ、若手の台頭もあって、料理も体裁だけとな り、客を無視する風潮が高まってきている。旬の味も昨今では縁遠くなって しまった。 Sから遠ざかった私は、新たな食味探訪にあちこちへ足を運んでいる。だがお 目当ての絶品の味になかなか行き当らない。このところレストランへの足も、 日毎に遠のくばかり。