第 3819 号2022.04.24
「半径六十cmの仕事場」
匿名希望
そのお手製の木箱のような椅子は、毎年庭に雑草が生え始める頃出番がやって くる。頑丈に作られているが、片手で簡単に持ち運べるように設計されている。 箱の上には上っ面の寸法に合わせて少しだけ大きめに作られたこれもお手製のお 座布が乗る。使わなくなった私の古いネクタイで椅子にこのお座布を縛り付ける のである。 草取りの為に屈むことが辛くなり始めた七十の半ば工作好きな私が椅子を作り、 お座布は裁縫上手な奥さんが作ってくれたのだ。かれこれ十年位はお世話になっ ている。これを雑草の近くに持っていき、やれやれと腰を下ろすのである。手に はこれも使い古され御役御免になった曲がったフォークである。ユリ・ゲラーの 念力で挙げられたようになってしまったのが幸いして、草取り用には欠かせない 超便利な道具になった。 草取りなんて定年になるまで考えたこともなかった。それまでは元気だった奥 さんがいつの間にかやってくれていたのだ。六十になって黙々と草取りをする奥 さんの姿を見た時、これは男の仕事だと思った。初夏から夏、照りつける日差し の下で週に一回、奥さんは草取りを欠かさなかったのだ。思い立ったその日から 私が我が家の除草担当になった。 初めは惰性だったのだが、七十を過ぎた頃、奥さんがいかに大変だったなとい う思いが込み上げてきた。綺麗な庭は実は奥さんのお蔭だったのだ。八十を過ぎ ると奥さんへの心からの感謝の思い満載である。こんな小さな都会の庭にも雑草 が生え、花が咲き、木々は成長し、虫が育ち、蝶になり、蛾になる。孫達が虫の 名前を聞き、図鑑片手に答える自分がここにいる。惰性は真の習慣となった。 「お菓子と麦茶はいりましたよぉ」「今行くったら」。小さな庭と奥さんへ、満つ る感謝の念でいっぱいである。半径六十cmは、私のありがたい仕事場なのであ る。