第 3791 号2021.10.10
「旅する傘」
生沼 聖
寺を出ると、雨だった。呆然と立ちつくす私の頭上に、僧侶が一本の傘を広げた。 「持っていきなさい」 それは、何の変哲もないビニール傘だった。 礼を言い、私はその場を後にした。差し出された傘を握ったまま、私は友人と京 都観光を続けた。いくつかの土産物屋を覗いているうちに、雨は街から姿を消し ていた。 京都駅に着いた時、自分が傘を持っていないことに、ようやく私は気がついた。 先ほどまで乗っていた、市バスの中に置き忘れたのだ。取りに戻ろうにも、バス はすでに走りさった後だった。 「大丈夫。あの傘は、人を旅する運命だから」 肩を落とす私に、友人はそう声をかけた。 なんでも、ある種の傘は、持ち主を変えながら旅を続けているのだと彼女は言う。 「私たちは、もう傘を必要としていないでしょ?だから、あの傘は求められてい る人のもとへ移動したのよ」 日常に戻り、しばらくした頃。会社から出た私は、突然の雷雨に見舞われた。コ ンビニで雨宿りをする私の目の前を、ビニール傘を差した見知らぬ男性が通り過 ぎて行った。 その横顔は、どことなくあの日の僧侶を彷彿とさせた。男性が差す傘は、果たし て本当に彼の持ち物なのであろうか。 今もどこかで、記憶の中の傘は誰かの人生と旅を続けているのであろう。そこに ある物語を、私は目を閉じて想像してみる。 巡り巡って、私の人生といつか再会することを強く願った。