第 3784 号2021.8.22
「いのち」
竹内 陽子
もうすぐ30歳にもなろうとする息子が、幼稚園の通っていた頃である。 建て替えたばかりの我が家の小さな庭の土の中から、蝉の幼虫が顔を出した。 「お母さん、来て!来て!」という声に庭を覗くと、地面に目を凝らして しゃがんでいる息子がいた。私も蝉の幼虫を見たのは初めての事である。家の 建て替えの為に、木を切ったり土を掘り起したりしていた中で、よくぞ生 きていたものだ、とまず思った。驚きである。 幼虫は本当に少しずつ少しずつ、やっと土の中から這い出ると、ゆっくり ゆっくり歩き始めた。木の根本に到達するのに2メートル程だろうか、どのく らい時間がかかったのか正確には覚えていないが、かなりの時間を要した事は 確かである。そこから又、ゆっくりゆっくり木を登り始めて、大人の目線の少 し上くらいで動かなくなった。 私は家の用事をしながら時々庭を覗いていたが、息子は横で遊びながらでは あるが、ずっと観察していた。木に登って動かなくなるまで何時間かかった だろうか。暫く動かなくなった幼虫が少しずつ羽化し始めた。これは私も庭に 飛び出していって、息子と一緒に目を凝らした。やっと殻から抜け出した蝉は、 すき透った白である。それも徐々に白が濃くなっていって、本来の蝉の姿に近づ いていく。 幼い頃から虫というものが苦手で、小さな天道虫でも逃げ回っていた私である が、蝉の羽化を目の前にして甚く感動してしまった。 そこにはずっと受け継がれてきた生命の営みがある。蝉は地中で長い年月を過し、 地上に出て子孫を残し、一ヶ月程の生命を終える。