第 3775 号2021.6.20
「至福のひととき」
M・H(ペンネーム)
昨年5月、急きょ心臓の手術がきまった。人口心肺を使っての大手術に「ま さか自分が」と正直ひるんだ。入院中は外に出ることも家族と面会することも できず、分厚いガラス越しに眺める東京タワーがやけによそよそしく見えた。 文字どおり自分を支えるのに精いっぱいで、周囲を顧みる余裕もなかった。病 院の廊下を、とにかく自分の足先だけを見つめて歩いた。 退院後、杖をつきながら初めて家の外に出る。妻に手をひかれながら近所を 歩くのがやっとだったが、1ヶ月後に15分ほど遠征してケーキを買って帰るの を小さな励みにした。 念願のケーキはずっしりと重かった。フォークを口に運んだ瞬間、言葉を 失った。 変わり続ける世の中で、あたりまえのように存在するもののありがたさを嚙み しめた。変わらないであり続けることに、いったいどれだけ多くの人の努力が 必要だろうか。 そういえば入院時の記憶を巻き戻してみると、今まで気づかなかったいろい ろな人たちの顔がよみがえってくる。手術室の頼もしい医療チーム、ICUで24 時間見守ってくれた人たち、朝昼晩と食事の用意をしてくれた人たち、歩行も ままならない体を支えてくれた人たち…、まるで無力な自分のすぐ隣で、一瞬 も途切れることなくいのちのバトンをつないでくれた人たちがいた。 それから、その場にいなくても心のよりどころだった家族、健康な時にはそ の存在すら忘れがちだが、今も途切れることなく働き続けてくれている心臓ー 「あたりまえ」と見過ごしていることの奇跡、「いま、生きている」という 至福。変わらないケーキの味にふれるたび、何度でもその事を思い出すだろう。