第 3761 号2021.3.14
「デート」
小林 えり
令和二年四月某日。私の職場の介護老人保健施設に、一冊の雑誌を携えた 一人の高齢のご婦人が訪れた。 「これを主人に渡してください。」 新型コロナウイルスの感染予防のため面会が中止となり、入所者への差し入 れや洗濯物等の受け渡しは受付の職員が行うことになっている。雑誌を受け 取る私に、ご婦人は更にこう続けた。 「主人には会えないのでしょうか?」 感染予防のため今は面会できないというマニュアル通りの私の説明を受け 「そうですよね・・・。」 小柄なご婦人の身体が、悲しさや寂しさで一層小さくなったように感じられ た。受付にいた職員達はマニュアルにない面会方法を模索し始めた。直接 会うことができないのなら、部屋のガラス越しもしくはタブレットを使用し た面会が提案された。ご主人の部屋は二階のため、タブレットを使用した 面会を採用しご婦人の了承を得る。部屋へ向かうと、ご主人は入浴のため不 在である。浴室は一階にあり、一階には中庭に面した食堂がある。予定を変 更しご婦人を中庭へ、ご主人を食堂に案内しガラス越しの面会が行われた。 浴室にいる介護の職員へ連絡した後、私は受付へ戻りご婦人を中庭へと案内 する。私と、施設を訪れる際に乗ってきたタクシーの運転手に手を引かれ、 ご婦人はゆっくり、ゆっくりと中庭へ続く道を歩いてゆく。晴れ渡る青空の 下、中庭では桜が散り菜の花が咲いている。絶好のデート日和だ。食堂では 車椅子のご主人が介護の職員とガラス越しに手を振っている。 「おとうさん!」 ご婦人が声をかけるがガラス越しのため互いの声は届かず、私は携帯電話を 持参してこなかったことを悔やんだ。ご婦人はガラス越しに顔を近づけ、ご 主人に声をかけ続ける。 「いつも車椅子なの?歩けるの?」 「元気になってね。」 「また来るね。」 ご主人は最後に笑顔でOKサインを見せてくれた。ご主人の笑顔に見守られ、 ご婦人はゆっくり、ゆっくりと来た道を引き返していった。