第 3759 号2021.2.28
「正常性バイアス」
F(ペンネーム)
「正常性バイアス」という言葉がある。異常事態下にあってもその状況を 受け入れず、日常生活を続けようとする人間の習性を指す心理学用語で、近年 多発している自然災害に伴い広く知られるようになったらしい。 この春、父が亡くなった。葬儀のため、普段は散り散りになっているきょう だい3人(プラスそれぞれの連れ合い)が残された老母のもとに集まることと なったが、狭い実家には全員が寝泊まりすることはできない。そこで一番 末っ子の私と家内が、仮通夜、本通夜の晩は斎場で寝ずの番をすることになった。 父は、本通夜では祭壇の前に安置されるが、仮通夜ではまだ寝所で布団に寝か されている。我々も一夜その横で過ごすわけだが、最近の斎場は設備もビジネス ホテル並。風呂から布団から冷蔵庫から、何から何まで完備してあるので実に 快適である。 だが、その快適さが徒になったのか、我々夫婦は通夜という時と場にある まじき振る舞いをしでかした。こともあろうに寝ている父の横で、毎日励行 しているラジオ体操をおこなったのだ!もちろんそれなりの理由はあった。 これから数日続く煩雑な葬事で、心身ともに疲弊するのは目に見えている。 ついては、出来得る限り日頃のペースを崩さないようにしよう――そう考え たのである。 しかしながらこれは、今振り返ってみるとやはり異様な光景である。安ら かな眠りについている父の傍ら、明朗な音楽に乗せて60歳前の夫婦がドッタン バッタン、イッチ、ニーと腕を振り上げ飛び跳ねている…防犯カメラで葬儀場の 職員に見られていたら(見られていたかもしれない)、この人たちは悲しみの あまりどうかしてしまったのではないか、と訝しがられたかもしれない。もっ とも生前の父はおふざけの好きな人だったので、苦笑しながらも喜んでくれ たような気がしないでもないが。 あれも正常性バイアスの一種だったのだろうか?