第 3758 号2021.2.21
「たまごの醤油ぐるぐる」
堀 智恵(ペンネーム)
朝食はたいてい、梅干しとすりごまをのせた熱々のごはん、具だくさんのみそ汁、 常備菜を少々、それとたまご。 チーズ入りのオムレツや、半熟の目玉焼きにちょっと醤油をたらしたのとかをよく つくるが、ときどきむしょうに、母の「たまごの醤油ぐるぐる」が食べたくなる。 子どもの頃からわが家の朝食にひんぱんに登場していた一品だ。 なんのことはない。アルミ製のミルクパンにたまごを2・3個割り入れて、たぶん 醤油とみりんと酒かなにかを加えて火にかけ、菜箸でぐ るぐるかきまぜスクランブ ルエッグの和風味のように仕上げたものである。 眠い目をこすりながら席につくと、ミルクパンがテーブルのまん中にどーんと置い てあり、その甘じょっぱい匂いにお腹がぐるりと動きだす。家族4人がうまいぐあい にスプーンで等分にすくいとり、次の人に渡す。今思えば、時間に追われ、それぞれ の皿にセットするのも惜しんだ、母の都合のいいおかずだった。 結婚するとき、母は私に手書きのレシピ集をもたせてくれた。私が幼少のころか ら、毎年食卓に上った季節の手仕事の品や、おせち、デザート、おもてなし用まで。 文字を目で追っただけで、味つけや匂い、口に入れたときの感触、盛りつけや使った 食器まで思い出せるものばかりだった。でも「たまごの醤油ぐるぐる」はそこにはな い。母は、わざわざ載せるほどの献立ではないと思ったのだろう。 材料も調味料も少ないので簡単にできそうなのに、何度やっても同じ味にならな い。1分でも長く布団の中にいたいという頭しかなかった私は、朝食しか登場しない この献立を、母が作るのを見たことがなかったからだ。 母が亡くなり今年で七回忌を迎えた。生前身に着けていたものや、未完成の刺繍、 手紙などを見ても触れても、もう私は泣かなくなった。 ただ、朝食をとっていて、ふと「たまごの醤油ぐるぐる」を食べたくなったとき だけは、目の奥がとたんに熱くなってしまうのだ。