「 祖父のお菓子 」
和泉 恵(パンネーム)
祖父は戦前、東京の下町でお菓子屋をやっていた。和菓子ではなく、焼き菓子だという。雪深い田舎から上京して最初はフルーツパーラーに勤め、独立して故郷から嫁をもらった。川辺でボードを漕ぐ、伯父によく似たハンサムな写真を見たことがある。店を構え、作業場を作り、自宅の二階を従業員宿舎とした。
戦争が激しくなり、昭和20年3月10日に大きな空襲があった。縁故疎開していた田舎から、下町の小学校の卒業式に出るために帰っていた母と、祖父が空襲に遭った。永代橋を渡り、日本橋を右に折れて小石川で飴を作っていた親戚の家まで逃げた。命は二人とも助かったけれど、下町の家も店もみんな焼けてしまった。
戦争が終わったのは8月。でも、祖父の店が再建されることはなかった。祖父が9月に病死してしまったから。
母からも祖母からも、祖父の人となりを聞くことはあまりない。一番近かったはずの祖母も他界して久しい。昔のことを思い出すよりも、毎日を暮らすことの方が大問題だった。先に進まなければならなかった。だから、どんなお菓子を作っていたのか、どんな味だったのか、聞くことはない。
家族にとって、お菓子は生活の手段。お父さんは家族の支え。でも、店にお菓子を買いに来てくださっていた人たちにとってはどんなお菓子だったのか。忘れられないもう一度食べたいお菓子だったのか、それともどこにでもある普通のお菓子だったのか。伯父も大叔父も、アイディアと工夫を重ねる人だったから、祖父の作るお菓子も創意工夫の満ちた小洒落たお菓子だったのではないか。そんなふうに思ったりする。
何十年も同じ味の続く、美味しいお菓子をいただきながら、レシピを受け継ぎ、日々、心を新たにして美味しいお菓子を作り続けている人たちのことを思う。祖父のお菓子を食べることは金輪際できない。でも、このお菓子にも、顔を見ることのない、たくさんの人たちの思いがあることだろう。「美味しい味を味わってもらいたい。」そんな風にして、私たちの命は穏やかにつながっていく。