「 ヒトはどこへ行くのだろう 」
三枝 恭子(横浜市)
私は、子供の時一人で遊ぶのが好きな子供だった。春になって草や木の芽が出始めるとすぐ野原や藪や林に出かけていって、歩き回った。
一人で話しながら歩くのが習慣になっていた。
今も木でも草でも花でも見ていて見飽きないが、自然に生えている、或いは人の手があまりかかっていないのが好きだ。だから、美しい庭園に咲く大輪の花よりは、地面にしがみついて生えているような草の方が美しいと思うことが多い。一方、人が植えたとしても、800年も立ち続けているような木もすごいと思う。その彼らと同じ時空間に共存することの不思議は、他の生き物からは感じられない。そう感じるのは、私に限ったことではないだろう。
家を建てるからといって木を切るのは本当に悔しい。私が働いていた大学の研究室の建物の建っている敷地には、以前は6本の素晴らしいモミの木が植わっていた。それを切ったら嘆き悲しむ人が多いということを大学は知っていたから、建築の始まるときが近づいたある月曜日、みんなが出勤する前に6本全部を切り倒し、一枝も残さず運び去った。皆が出勤した時には、6つの大きな切り株の生白い丸い輪が地面から突き出ていた。
大学がどうしても木を犠牲にして建物を建てなければならないときめたなら、早朝にこっそり切り倒すのではなく、人々を集めて、木に切ることを許してもらう儀式をするべきだった。その想いは一生私について回るだろう。ほかの生き物に対して、殺したりとって食べたりする際に、許しを請う儀式をする文化が昔はたくさんあったし、今も残っている。しかし、ヒトという種がますます「自然離れ」していく中で、自分たちがすべての生き物とつながっているという意識がだんだん薄れていっている。そして、大変身勝手な生き物に変貌しつつある。その人間の1人としてどう生きればいいのか、といつも考えている。