「 ピュアな男と女の話 」
夢野旅人(ペンネーム)
「私、男の人は貴方しか知らなかったの。」
それは、私の友人である「文(ぶん)さん」が、病床にいる奥様に打ち明けられた最期の言葉だったそうだ。文さんはぐい飲みを傾けて、どこか遠くを眺め乍ら私にそう言った。
二回り年上の文さんは、私と同じ年の時に、その奥様を癌で亡くされている。最後の半年は二人三脚で静かに時を流したそうだ。
文さんの別荘に行くと、若かりし日の文さんとその隣でにこやかに笑っている奥様の写真がカウンターに飾られている。
文さんと話していて「男と女」とは一体何なのだろうと思う。結婚しているから分かり合えるという訳でもあるまい。幸せそうに見えても、実は問題を抱えていたり、独り思い悩んだり。逆に粗末に見えても実は愛情に溢れていたりする。翻って文さん。奥様の最期の言葉は今でも耳朶に染みついているそうだ。ただ、その言葉は蘇る度に、自分が唯一の男であったという「誇り」を想い出させて、日々を健やかに生きていく糧になっているとの事。
亡き奥様の分まで生きようとか、今でも忘れられないと言ったような気張った話ではない。どこか優しく、淡く、そして懐かしい響きが、文さんの宝物になっているという事なのだろう。
「僕もね、同じ事を彼女に言ってあげたかったんですけどね、さすがに嘘をいう訳には行かなくてね。ただ笑って見送るしかなかったんですよ。」文さんは傾けた杯を口に近づけながら、にこやかにそう言った。私は店のご主人に杯をもう一つお願いして、酒を注いだ。「文さん、今宵は三人で呑みますかね」。それから文さんは暫くの間、檜のカウンターに置かれた献杯を懐かしそうに見つめていた。私にはお二人が囁き合っているように思えたので、邪魔をしないように独りで箸を進めていたのだが、ふと横を見ると、文さんは眼鏡を外して、目じりを指で拭っていた。