第 3518 号2016.06.26
「 交番にて 」
長谷川 範子(ペンネーム)
わたしは、お金を、よく拾う。
小学四年生のときに、道で拾った千円札(ベージュとグリーンの伊藤博文だった)を歩行者天国のそばにいた警察官に届けたのが、はじまりだ。
「これ、落ちていました」と、ちいさな声で手渡したあの日から数十年、駅で、路上で、砂浜で、エナメルの赤い長財布や、くたっとした黒い革の小銭入れ、あるいは裸のまま折った二千円札などに遭遇してきた。
初めこそ、警察にお金を届けるという行為に、なぜか後ろめたいような正義感を覚え、緊張もしたが、経験を積むうちに、非日常であるはずの交番の雰囲気にも慣れてしまった。
ある日の夕方、例によって近所の交番で手続きしていると、わたしと同じように、他人の遺失物を届けにきた中年の男の方が現れた。ジョギング途中らしく、上下白のスウェット姿である。
「これ、そこのベンチに、落ちとった」
交番に入ってくるなり、拾った物を置き、リズミカルにそういうと、立ちあがった警官と先客のわたしを交互に見、「じゃ」と半身を返した。
「や」と警察官があわてていい、「持ち主が見つからなかった場合…」と複写式になった書類の束をさしだすと、「いらんわ、ひとの物なんか」とひとこと。
そして、なあ、というふうに、わたしを眺め、目で笑い、ジョギングモードで去っていった。数十秒の出来事。わたしは思わず、ひたいに、手をあてた。ああ、この瞬間、わたしは、なぜ、のんびりいすにこしかけているのだろう。結論は同じなのに。
「放棄します」のひとことも、わたしのペースで発せられるようになりたい。そうして、瞬間、瞬間の人生の舵取りを、もっと軽やかに、きっていきたいと感じた。残された警察官とふたり、どこかの誰かが置き忘れた、ふるいCDプレイヤーを見つめながら。