「 私の庭は秋 」
児玉 和子(中野区)
抜けるような青空をみせて秋晴れの日が続いた。
昨夜は久しぶりの雨に恵まれ、雨上がりの朝の庭にうす陽がさしている。
冬なら野鳥の飛来はこんな日差しの午前中に集中するのに、いまは秋。
クスの木に烏瓜が赤くうれた実をからませ、柿の葉が色づきはじめた。
この夏は、いま流行のグリーン・カーテンとやらを楽しむことにして、ゴーヤの蔓を南側の軒下に這わせた。実がなれば食用にもなるという、一石二鳥をねらったのだが、私はどうも園芸がへたである。それでもゴーヤは、申し訳のようにスリムな実をいくつかつけてくれた。夏の間、庭に出るのはゴーヤを取るときだけで、雑草ははびこるに任せていた庭だが、やっと枯れ草を片付ける気になって庭にでた。
まずゴーヤ棚を取り払っていると、葉の蔭にとり忘れた小さいゴーヤが二個、はぜて鮮やかな朱赤の種が、濡れたように光っていた。私は以前見たテレビのドキュメンタリー番組『ホトトギスの託卵』を思い出し、ドキリとさせられた。
ヨシキリの巣に託卵されたホトトギスの卵は、雛になると自分の背にある窪みに、ヨシキリの卵を載せるようにして、巣の外にほうり捨てる。
孵ってしまったヨシキリは巣の際まで追い詰め、巣の外に力づくで捨てる。組み込まれた遺伝子のなせる業とはいえ、まだ羽根も生えず、目もあかないホトトギスのヒナは、浅ましくもおぞましい姿をみせた。
巣を一人占めしたホトトギスの雛は、朱赤の口を空に向かって大きく開き、餌をねだって鳴く。ヨシキリの親は自分よりはるかに大きいホトトギスの雛に、せっせと餌を運んだ。
ヨシキリの鈍さ、お人好しぶりをもどかしく思って見ていると、ナレーションが入った。
「ヨシキリには、この色を見ると餌を運びたくなる本能が組み込まれている」なるほど。
天の配剤といってしまえばそれまでだが、ホトトギスの残酷な行為はその姿に似つかわしくない。残酷さにおいてはモズも負けない。蛙を捕らえて木の枝などに突き刺す『モズの早贄』がある。私は青春期の四年を田舎で暮らしたが、秋には甲高い声で鳴くというモズの声も、古今和歌集などに優雅に登場するホトトギスの鳴き声も聴いたことがない。
枯れ草を取り除いた庭に、雑草の種でもこぼれたのだろうか、スズメが群れてやってきた。こうして私の庭は冬を迎える。