第 3464 号2015.06.14
「 父と腕時計 」
菊池 陽大(ペンネーム)
ほどなく定年を迎える父にささやかなプレゼントを贈ろうと、あれでもないこれでもないと考えていた折、帰省のついでにそれとなく父に探りを入れてみると、その返答は少し意外なものだった。
「腕時計がいいかなぁ……」
これから悠々自適な生活を送ろうというときに腕時計?
地方の新聞社で40余年、それこそ時間に追われながら忙しく日々を過ごしていた父が?
「似合うだろ?」と写真付きのメールが父から送られる頃には、当初抱いた腕時計の疑問もすっかり忘れてしまっていて、その理由を質すこともなく「センスのいい息子でよかったな」と冗談めいた一言を返信するだけだった。
しばらくして、父から宅配便が届いた。それは一枚の絵だった。
後に聞いた話では、姉が油絵具の道具一式をプレゼントしたらしい。父がまだ若かったころ、絵を趣味としていたことは聞いていた。
しかし、仕事と育児に追われ、次第に画筆をとることも少なくなったのだという。
それでも以前は休日に美術館を訪れることもしばしばあったのだが、近頃はテレビの特集で興味を持った展覧会に年に数回行く程度になっている。
これまでそんな素振りを見せなかっただけに、父がこの歳まで静かに関心を抱き続けていた事実は驚きだった。
その絵に描かれていたのは、私が育った一軒家だった。
当時は古さなど感じなかったが、すっかり老朽化し、住む者も少なくなり、もうすでに取り壊されてしまった。いま同じ場所にはアパートが建っている。私はまだ見たことはないのだが。
どうやら私の腕時計は、もっぱら油絵具が乾く時間を計るのに活躍しているらしい。
お礼の電話のついでに腕時計のことを聞いてみた。
「これまで時間に追われてたからな、これからは時間を待ってやろうと思ってね。」
そう言って父は笑った。