第 3462 号2015.05.31
「 パスケースの中の父 」
西堀 すみよ(ペンネーム)
「おい、警察へ乗せて行ってくれないか」
突然の父の申し出に、来月誕生日だから運転免許証の更新かな?と思いきや「運転免許証を返そうと思って」。
数年前から自動車の車庫入れの際、何度も塀にぶつかるので、家族から車の運転は控えてほしいと言われていた父。運転免許証を返納するとの父の決断に、家族としてはひと安心だが、直ぐに寂しさが押し寄せてきた。
若い頃から車好きだった父。近所ではまだ自家用車のある家が珍しい時代、結婚してからすぐさま車を購入した。
私が幼稚園の時、雨が降ると必ず車で迎えに来てくれた。父が幼稚園に到着すると、先生が「お父さんが迎えに来てるわよ」とみんなより一足早く帰宅することを許してもらっていた。そして、同じ帰宅方向に住むお友達も一緒に車で家に送ってくれた。それがこどもの私を少し得意気な気持ちにさせた。
新しい自動車に替えた時、その車のナンバーに私の名前の頭文字が付いていた。「お父さんがお気に入りの車のナンバーに自分の名前の頭文字を付けてくれたのだ」と勝手に思った私は、さらに父が好きになった。
父の新たな足となったのは、長年母が乗っていた自転車である。自転車を買ってもらったばかりの少年のように毎日その自転車に乗り、年齢の割にはスピードを出して風を切りながら楽しそうに町を走っている。
「車と違ってガソリン代はかからないし、運転免許証もいらないからね」と笑う父の最後の運転免許証が私の手元に残った。
裏面に「失効」と印が押され、穴のあいたその運転免許証の写真の父は、娘のパスケースの中で少し居心地が悪そうな顔をしている。