「 母の顔・娘の顔 」
安藝 朋子(江東区)
もうすぐ祖父が亡くなって一年になる。祖父の最期を看取ったのは私と妹だ。肺癌と診断されてから半年もなかった。
祖父の娘である私の母は、つききりで介護をし、入院後も泊まり込みで看病を続けた。母は一人っ子で、祖母は7年前に亡くなっていた。
結婚し、実家から離れた街で暮らす私と妹は、祖父が亡くなる前日、今夜あたりが峠だろうという連絡を父から受けて、慌てて病院に駆けつけた。
祖父は静かに眠り続け、一夜明けても容態は変らず、安定しているようにさえみえた。それで母は、着替えを取りに1時間ばかり家に帰ることにした。祖父はまるでその時を選んだかのように、その1時間の間に息を引き取った。
私と妹は病院の駐車場で母の車が戻ってくるのを待った。12月の福岡にしては寒い日で、時折雪が舞っていた。戻ってきた母は駐車場に立つ私たちの表情を見るなり、顔を崩して病棟へ走っていった。
それは、私たちの知る母の顔ではなく、父を失った娘の心許なげな顔だった。
その顔を見てふいに思い出したことがある。私が小学校4年生くらいで、夏の終わりだった。母の実家はもともと農家で、祖父は畑で色々な野菜を作っていた。寒い冬の朝も暑い夏の昼間も、ほとんど畑で過ごしていた。母はそんな祖父の作る野菜を誇りに思っていたのだろう。その日も祖父が作った長茄子をもらって帰ってきた。私は茄子が嫌いだったので、その茄子を見て「えー」と何気なく不満を口にしたと思う。すると母は突然こわばった表情で怒り出した。
私は驚いた。それは子を叱る母の顔でなく、親のことを悪く言われて傷ついた娘の顔だった。
先日、母に電話で祖父の一周忌に帰れないことを詫びた。そのかわり年始には必ず帰るからねと。母は正月にみんなで過ごせればそれでいいと言った。そして電話の最後で必ずそうするように、米は足りているかと訊いた。その声は、娘の暮らしを心配するいるもの母の声だった。