第 3354 号2013.05.05
「 野苺の思い出 」
うぐいす(ペンネーム)
歯医者が嫌いだった。歯医者の日は朝から無口で家を出る時から泣いていた。泣き声はだんだん激しくなりドアを開けると消毒の匂いと耳に響くマシーンの音にノックアウト。泣きじゃくる私は他の患者さんにも迷惑と困った母が子供専門の歯医者の帰りには母からご褒美がもらえる。
子供歯医者に向かう途中の小川淵を歩いていたとき私の手を軽く握って母が聞いた。
「まーちゃん、今日のご褒美何がいい?」
涙目で母を見る私。歯医者怖さにそれどころではない。顔を上げて流れる小川を見ると向こう川淵に野苺がなっていた。「あれ…」指差す私に母が小首を傾げてにっこりする。
「わかった約束ね、帰りもこの道を戻ろうね」
帰り道、いつものように泣き草臥入れてクタクタになった私の手を母はしっかり引っ張りながら歩き、野苺の場所で止まった。
「いい?ここ絶対に動いちゃダメよ。ママも野苺のお約束守るからね。指切りげんまん」
私の頬に優しく手をあて母は小川の方を見た。さやさや水は流れ、小さな野苺は木漏れ日にあたり、風にユラリ揺れている。
「お母さん…」また泣きそうになる私に微笑むと小川の飛び石を慎重に踏みながら向こう川淵に渡っていった。一人取り残された私はしゃくり泣きながら母を呼んだ。(約束、動いちゃダメね…)
自分に言い聞かせる。母が消えてしまいそうでほんとうに怖かった。
それから野苺を右手に戻ってきて、私を抱きしめてくれた。フンワリ優しい母の香りに安心してよけいに泣いた。その日から歯医者に行っても泣かなくなったらしい。
時は流れても記憶に残る日は誰にでもある。
川淵を母の手をひいて歩くたびに思い出すあの柔らかくあたたかい手…
今は年老いてか細くしわくちゃな手だけど優しさは変わらない。