第 3340 号2013.01.27
「 趣味の魅力 」
西田 昭良(横浜市)
歳が蒿むにつれ、昔の友人や同僚たちとの交流も薄らぎ、地域の老人会に出席しても、病院や薬の話で持ちきりである。自然の成り行きとはいえ寂しい。
その孤独感を払拭してくれるのが趣味である。私の場合は囲碁。
碁会所に行くと、色々な人に出会えて面白い。だが、不愉快な思いをする人とは、席料を払ってまでも打ちたくないのが本音である。
ルールやエチケットを無視する人。タバコを吸う人。やたらと勝ちたがる人。落ち着きがなく、口かずの多い人。そんな人との対戦成績は極めて悪い。
何故か。色々と思いを巡らしているうちに気がついた。その原因は未熟な私が〝人〟を相手に碁を打っているからだ、と。そうではなく、私は〝神〟(碁神とでも言おうか)と打つように心掛けねばならないのだ。
無限の手段を持つ囲碁の奥行きは、宇宙のように広く、そして深い。到底人智では測り得ないゲームである。私の目の前にいる相手は、囲碁を司る全知全能の神が色々な人間に身を変えて、私の技量や人間性を試しに来ているのに違いないのだ。 そう思うと、神には絶対に勝てないのだから、私は自分の現在持てる技量の最善と思われる手を尽くせばよいだけのことだ。
そう心掛けているうちに、今までは嫌らしかった相手にも好感が湧いてきた。更に、良い相手とは一層親しく付き合えるようになったのである。勝率も向上した。
今日も、どんな相手と手談(囲碁の別称)ができるだろう、と胸を弾ませながら碁回所へ向かう。「よくも飽きずに熱心なこと」と嗤う女房を背にして。
友とは、自然にできるのではなく、自ら進んでつくるものなのだ、と、この歳になって改めて囲碁から教えられたのである。