第 3339 号2013.01.20
「 碁敵 」
長坂 隆雄(船橋市)
寺の住職にとって、私は最大の碁敵であるらしい。年齢60歳、由緒ある北陸の寺に生まれたが、生家は兄が継ぎ、奥さんの地元で、ささやかな寺を開山し30年の歳月が流れた。飾る事はなく、思った事は口にし、お世辞を言う事もない。時には誤解を生み、暫くは疎遠になる檀家もあるが、暫くすると、再び顔を出す。高額な葬儀費用を要求し、社会の顰蹙を買う寺が多い中で、住職は相手任せで自分から求めた事はない。当然、生活は楽ではない。
併し『宗教家の原点は貧にあり』と平然としている。
退職後、宗教に関心の薄かった私は、住職と肌が合ったのか、話しに花を咲かせる事が多くなった。カラオケに興ずる事もなく、酒も嗜まない住職にとっての唯一の趣味は上達しない囲碁である。それも、実力に差がありすぎて、負けてばかりでは面白くもない。請われるままに相手をした私は見事に負けた。
学生時代から殆ど石を手にした事のない私が勝つ筈がなかった。半年近い歳月が流れ、私の勘も次第に戻り、気楽に打っても三度に二度は簡単に勝つようになった。併し住職は依然として自分の実力は私より若干上と考えている。従って、住職にとって、私に続けて負ける事は碁敵として最大の侮辱である。負けると、全身を震わせて悔しがる。そして、色々と難癖をつけて負けを認めようとしない。そんな住職を見て、私も『私が負けて、住職が喜ぶのなら、それも功徳というものだろう』と思うようになった。
それ以来、覚られないように続けて負けた。住職は飛び上がって喜んだ。自信を持った住職は遂に私に白、黒の碁石交替を要求した。
お布施のつもりで負けてきた私も次第に面白くなくなってきた。手加減を止め、住職を打ち負かすべきか、それとも来世の幸福を願って、負け続けるか複雑に悩む昨今である。