「 蕎麦美人 」
田口 正男(渋谷区)
カビの生えた新婚の旅。きっかけは「あの時の約束、そろそろ果してちょうだい」、という妻の一言だった。
仕事の都合と身内の不幸が重なり、終にふいとなったハネムーン。その内にと誤魔化して置いた遠い昔の口約束が蒸し返され、妻と念願の善光寺詣でに信濃へ旅立った。
東京からJR「とき」のグリーン車で長野に着き、駅前のホテルに泊まる。翌朝は寺の本尊にご利益を祈願し、門前町を仲好くぶらついていると、いきなり妻が強請った。「折角だから昼は名物の蕎麦がいいわ」、私はそれならと、即座に妻を「戸隠」の里へ誘った。
路線バスで昼過ぎには目的の戸隠中社前へ着く。昔ながらの村落を貫く旧道の両側には、派出な屋根看板や軒に暖簾を掲げる蕎麦処が点在していた。「あそこ、どう」、妻が選んだのは古風な田舎家で、閑散とした店内は黒光りのする大黒柱を囲むテーブル席が数脚だけ。
薄暗い店の奥に声をかけた。調理場の縄暖簾の間から中年の浅黒い厳しい顔がぬっと出て、「おいで」と無愛想に迎えた。妻と隅のテーブルに着くと、最前の男が注文を取りにきた。「家は『ざる』がええ。手打ちだで」、ぶっきら棒にそう言い置き、面食らう二人に構わず男はさっさと調理場へ消えた。 欠伸が出る程待って、漸く男が両手に『ざる』を運んできた。
円い笊に山盛りの黒ずんだ蕎麦は、一目で食慾が失せた。亭主だという男に促され、それを口にすすり込んだ。が、腰のある歯応えと風味が堪らないっ。「旨い」、私たちは思わず唸った。「蕎麦は黒いのが別ぴんよ。ほれ奥さんみたいに」「あらっ、オジさんたら……」、亭主の空世辞に、妻は赤くなってはにかんだ。すっかり打ち解けた亭主の蕎麦談義は、日暮れまで尽きなかった。
名残を惜しむ私と妻を戸口で見送る亭主の呼ぶ声が、夕風に野太く木霊した。
「戸隠が恋しくなったら、またおいで」