第 3330 号2012.11.18
「 薔薇香る 」
渡会 雅(ペンネーム)
還暦過ぎてから絵画教室に通い始めた妻の背中を見て、私は何だか切なくなる。精神的にも経済的にも絵筆を握るゆとりなどなかった四十年余、すっかり苦労をかけたと思う。
油絵を描く女――それが妻と結婚した唯一の理由だった。美人でなくてもいい、良妻賢母興味なし、炊事洗濯などどうでもいい、一点豪華主義の私にとってその頃の彼女の絵は光り輝いていたものだ。
けれど、結婚後、彼女が描いた絵は一枚だけ。
「窓の外に広がる夕景色が幻想的で、素敵だったのよ」
橙色の光の中に何の変哲もない民家と樹木の描かれた絵に、私は夫の帰りを待つ新妻の体温のようなものを感じてすこぶる満足だった。
やがて子供が産まれ、絵など忘れた妻だが、二人の息子は両方とも美術と書道が得意で、しょっちゅう賞状をもらってきて、今もリビングには長男作の自画像『歪んだ顔』と次男の『銀河鉄道の夜』のパステル画が飾ってある。
その勉強はからきしダメ、頭痛の種であった二人も無事巣立ち、妻も私も若返ったような気がする一方、先も見えるようになった。
塗りかけのキャンバスを抱えて帰って来た妻と私の会話。
「風景よりも俺の肖像画を描いてくれないかな。お前の最後の作品として」
「そうね、マリーローランサンのように手には薔薇の花を一輪持ってね」
瓢箪から駒―折りしも庭に咲き始めた紅と黄色の薔薇を眺めながら、その絵に勝る遺影はないのではないかと、私は本気で考え始めている。