第 3317 号2012.08.19
「 清流 」
小島 容子(世田谷区)
昭和四十年代、まだ家庭用のクーラーもない時分で、母や叔母達は、夏休みになると、子供達を連れて長野の家で一ヶ月程を過ごすのが毎年の恒例になっていました。田舎の家の、一人暮らしのひいばあさんの寂しさを癒すのも目的だったのでしょう。
隣家の親類の農作業をお手伝いしたり、従姉妹達とはしゃぎ回って過ごしました。
田舎の人々は、働き者で、慎ましく、礼儀正しい暮らしぶりで、田畑は見事に耕され、整えられていました。
父や叔父達は暑い東京で一人暮らし。母や叔母達は、東京の夫と手紙でやりとりです。
「東京は断水続きで、ビールで顔を洗い、サイダーで口をすすいでいます。」
などと、叔母達が手紙を声に出して呼んでくれて、皆で気の毒がったり、笑い合ったり。
ある日、やかんや鍋を持って叔母や従姉妹達と、山にいきました。
桃畑から、クマザサの生い茂る暗い森の中に入って行きます。川の流れる音が、ゴォゴォと聞こえて来て、少しこわいような気がしました。クマザサをかきわけながらだいぶ下ったところで、急に前が開けて、河原に降り立ちました。
それはきれいな清流で、川を挟んだ河原の向こう側は、高い崖。淵の碧は鳥肌が立つ程美しく、木々はその河原いっぱいに梢を広げていました。
子供達は、水際で遊び、叔母達は河原の石を組んで竈作り。手際よく、飯ごうでごはんを炊き、お鍋でお味噌汁を作ってくれました。
その楽しかった事、うれしかった事。
40年以上が過ぎ、暮らしはすっかり便利になりましたが、のんびり一ヶ月も田舎で過ごすような習慣も無くなり、その清流も今はもうダムの底。夏が来るたびに、つましく自分たちの暮らしを守り抜いていた大人達の事や、美しく耕された田畑と共に、あおの美しい清流で遊んだ一日を今でも思い出します。