「 面影 」
金子 彰良(杉並区)
子供の頃、一度だけ東京ドームに来たことがある。
地方に住んでいた私は、父に連れられて、兄とプロ野球の試合を見に来たのだ。
父の仕事は忙しく、いつもどこかへ連れて行ってくれる訳ではなかったが、時々そうやって、僕らを野球観戦に連れて行ってくれた。
父は巨人ファンだったから、そのほとんどは甲子園での巨人-阪神戦だったが、この時はどうやって手に入れたのか、東京ドームでの巨人-中日戦だった。
私と兄に学校を休ませて、東京まで連れて来てくれたのだった。
試合が終わり、興奮も冷めない中、父の様子が少し変だった。その日の宿泊を用意していなかったのだ。
観戦帰りの人で賑わう水道橋の電話ボックスから、父は何軒かの宿に電話をし、私と兄は少し離れてその様子を見ていた。
父は時々僕らの元に帰って来ては、また電話ボックスへと戻りどこかへ電話をした。
そうやってどうにか確保出来た宿は、どこかのビジネスホテルの小さな部屋だった。
しかもそのホテルでは一部屋しか取れず、父は別の宿を取る事になり、また明日迎えにくるからな、と言って私と兄をその部屋に残した。
布団は冷たく湿っていて、私は兄にくっついて眠った。
子供の頃の記憶など曖昧なもので、正直に言えば、その時のほとんどを覚えてはいない。
巨人が勝ったのか負けたのか、何を食べてどこに行ったのか、さっぱり思い出す事が出来ない。
覚えているのは、電話ボックスの父の姿と、翌日はきっとディズニーランドだという淡い期待に反して、東京タワーに連れて行かれた事くらいだ。
あれから三十年が過ぎて、私は今、東京に住んでいる。
この夏には父の三回忌を迎える。
東京ドームへは一度も行く機会がないが、あの場所にまだ電話ボックスがある事には驚いた。
不思議な事に、故郷から遠く離れた水道橋の電話ボックスに、私は父の面影を見た。