第 3295 号2012.03.18
「 やっと甕 」
渡会 雅(ペンネーム)
「ヤットカメで髪を洗ったら、気持ちがええわ」と、風呂上がりの母が言うのを聞いて、妻が興味を示した。
「お母さん、その甕、私に貸して下さらない?」
どこかギクシャクしていた嫁と姑。
学生時代に同棲、そのまま、「こちらに帰っておいで」という母の懇願に応えず、故郷から遠く離れた都会で就職、結婚式も挙げなかった息子。
孫が産まれても、素直に喜びを表さなかった母。
「お前の女……」と、電話口でボソッと妻のことを呟いたことがある。
しかし、父を不慮の事故で失ってから、母は孫を溺愛し、私達も盆暮れには帰省するようになった。
―そんな折の大病。母は病院のベッドで喚いた。
「私は絶対死なない!」
何とか退院でき、久し振りに自宅で入浴。
「ヤットカメなんて甕はないがね」と、母は大笑いした。
「こちらの方言で『久し振り』の意味じゃ。ヤットカメであなたに笑わせてもらったわ」
「ええ、そうなの」
妻の柔らかな表情に、私はホッとして庭に下りる。
故郷は、見上げれば満天の星、微かに潮騒。
……妻の想い浮かべた『やっと甕』がどのような形をしているのか、私には見当もつかなかったが、しかし、それは大きな土器のような厚みと重みを持っているような気がした。