第 3263 号2011.08.07
「 『夕日』 」
西田 恵理(川崎市)
私がウォーキングをしている川沿いのコースは、すばらしい夕日が見られる。
日没のちょうど一時間前に出発すると、前半は夕日を背に歩き、折り返して後半は沈みゆく夕日を見ながら歩く。
夕日はユラユラとオレンジ色に染まった辺りの空を照らしながらゆっくり、しかし確実に落ちて行く。そして最後の太陽の弧がストンと消えてしまっても辺りはまだ明るい。
かつて私は夕日が嫌いだった。
独身時代は、帰宅するバスの座席にいつまでもギラギラと差し込む西日がうっとおしくて、早く日が沈んで涼しく静かな夜が来ないかなあといつも思っていた。
数年後、快活で明るい性格の私は、穏やかで静かな月のような男性と結婚した。
次の年に月のように穏やかな長男が生まれ、二年後には太陽のような快活な次男が生まれた。私たちは、喜んだり悲しんだり、びっくりしたり安心したりしながら幾度となく夜を送り、朝を迎え、季節を繰り返して、やがて二十年の月日が流れた。
かつて嫌いだった夕日を愛しく感じるようになったのはいつ頃からだろうか。
夏になり、日一日と日没の時間が延び、ビルの谷間に、山の端に、川の向こうに沈まんとする太陽が、まるで「お願いだからもう少し、今日という日を照らしていたい。」と言っているようで、人生の折り返し点を通過した私は、その切なさをようやく理解できるようになったのかもしれない。
毎日夕日を見て歩いていると、私はふと、人生の最後もこんな夕日のように終えられたらいいなと考えるようになった。昼間は一生懸命周りのものを照らし、日が落ちてもしばらくは皆を残った明かりで照らしていたい。そして、暗くなってから誰かに「あら、いつの間にか日が暮れたわね。」と言われるのが理想である。