「 萌えいづるも枯るるも同じ野辺の草 」
うた のり子(匿名)
その娘さんの横顔にくぎ付けになったまま、目が離せなくなっていた。
電車のつり革につかまっている私から少し離れたドアに向かって立った華奢なひと。歳は17くらいだろうか。特別美人というわけではない。化粧気のない健康な素肌。薄桃色の頬。眉は自然のカーブを描き瞳は明るい。長い黒髪を高い位置で1つに結わえたポニーテルの、リボンさえ付けない潔さ。髪を上げて露わになった頬と襟足の清々しさ。後れ毛が朝日に光り、長いまつげが陰影を落とす。
見つめていると、ちらとこちらを見る目がいぶかしげだ。おばさんの視線に気づき、戸惑いから不快に変わりそうな微妙な地点。さすがに目をそらせた。
そのとき不意に思い出した情景がある。私も学生の頃、こんな戸惑いを中年の女性に返したことがあった。そしてまた、今の私はあの時の女性と同じ目をしていた。
『平家物語』の講義に聴講に来ていた1人の婦人。休み時間、談笑する私たち学生を小さな教室の後ろからいつも見ていた。熱心な聴講生なのに机の上のテキストを伏せたまま、ただ私たちを、かすかに好意の感じられる、あるかなきかの笑みを浮かべてずっと見ているのだ。私は視線を感じて落ち着かなかった。どうしてそんなに見るの?
些細な感覚でも心に引っかかっていたのだろう。
こんなにも時が過ぎてから、謎だった出来事の答えを見つけることもあるのだ。あの時の婦人は今の私。もう決して手に入らない「若さ」に見入っていたのではないか。自身の若かったころを探すように懐かしい目をして。
講義は清盛の寵愛を受けた衹王が、16歳の仏の出現にとって代わられ、世をはかなんで出家したくだりだった。
それでも私は歳をとってこそ得られる答えがあることが今うれしい。衹王の嘆きも「盛者必衰のことわり」も切々と身にしみて感じられるのは、学生時代より今なのである。
若さは輝かしい。けれど歳を重ねるのもまんざらでもないのである。