「 笑顔になった 」
古所 原(匿名)
「で、お幾らでしょうか」「要りません」「え?」「結構です」「それは申し訳ないです」「いえ、それだけ完全には修理できないということなんです」眼鏡をかけた30代くらいの男性店員は真面目な顔をして答えた。
お気に入りの靴を修理しに行った時の事である。つま先部分と土踏まずあたりの部分に空間…つまり靴底が剥がれてきていたのだ。片方だけとはいえ長年愛用してきただけに諦めきれない。
新宿にあるこの店はいつも忙しい。そのせいか言葉数も少ないので少しぶっきらぼうにも感じたが、回答は実に明快だった。修理した後、しばらくしてまた剥がれてしまうがそれでも良いか?という事だった。
修理をお願いしたものの気持ちは何だか落ち着かない。いくら何でも無料はいけない。待ち時間の間に私は小さなおかきを2袋購入した。引き取りの時間になり店のカウンターに行くと、今度はボサボサ髪の店員さんが眉間に皺をよせてブーツと格闘していた。仕事の最中に悪いとは思ったが仕方がない。「すみません」私に気づくと、険しい顔をしてうつむき加減でカウンターに現れた。伝票を渡すと奥の袋から私の靴を取り出した。「確認して下さい」
靴は生き返ったように美しくなっていた。依頼したところ以外も手入れされていたのである。「まあ!綺麗に!有難うございました」私は小さな紙袋をカウンターの端にそっと置いた。「少しですけど食べて下さいね」すると彼は突然、背筋がピンと伸び、初めて私の方を見て言った。「え?そんな!逆に気を遣って頂いてすみません有難うございます」まるで別人!彼は満面の笑みになった。良く見るとイケメンである。既に後ろには次の客が待っており、急かされる様にその場を去った。
丁寧できちんとした仕事ぶりに感動しながら階段を降り、ビルを出た。
ようやく咲き始めた桜の淡い色に街が嬉しそうに映る。桜も、青年の素直な笑顔も、春の風に乗って私の心を温かく包み込むようだった。