第 3242 号2011.03.13
「 三つのつづら 」
山下 保子(札幌市)
私は物心がついた頃、よく家の中で、お友達とかくれんぼをして遊んでいた。
我が家には、桐のたんすと並んで、右端に緑色のつづらが三つ重ねて置いてあった。
つづらのどの表面にも、真ん中に朱色で、丸に根笹の大きな家紋が印されてある。不気味であった。かくれんぼの時、そのつづらの横にかくれたことがあったが、とても怖かった。
そのうちに戦争も激しくなり、物資不足の中で、私は小学六年生になっていた。
冬休みの宿題で、私はお人形を作ることにした。母は、三つの中の一つのつづらの中に、端切れがいっぱい入っているのを見せてくれた。白いデシンは、お人形の顔と手と足用に、オレンジ色は、ドレスと帽子をお揃いにして、三十センチ位のかわいいお人形の出来上がり。
担任の男の先生に、職員室に呼ばれた。
私の作ったお人形が先生の机の上にあって、「この人形先生にくれな!」となんども云われ、「ハイ」と返事をした。先生には、五さいくらいのおじょうさんがいらっしゃることを知っていたので、お人形と別れるのはつらかったけれど、納得したのであった。
それから五年後、私は学業を終え、二つ目のつづらには、母が着られなくなった和服がいっぱい。三つ目のつづらは、使わなくなったカーテンや、テーブルクロス等が入っていた。私は、白い木綿のカーテンでブラウスを仕立て、和服は上下お揃いのが出来た。その洋服を着て、初出勤したのは昭和二十年四月のことであった。
戦前、私が怖がった三つのつづらは、母が大事にしていたので、中の品物は、戦中、戦後、重宝で、食料に替えたものもあったようだ。
改めて亡母に感謝し、三つのつづらさんにも懐かしく、胸がいっぱいになった。