「 鍋 」
黒 田 美 月(ペンネーム)
ホームセンターで、アルミの鍋を買った。新しい鍋はやさしい丸い形で、色は昔ながらのやわらかな黄金色に輝いている。その鍋を、娘と同じくらいの年頃の可愛い店員さんにレジ袋に入れてもらう。レジ袋を持って、秋のやわらかな日差しの中、ゆっくりと海岸通りを歩いていると、ふと何やらもの悲しい気分になってきた。ここの所、買い物と言えば食料品と日用雑貨等の実用一辺倒である。今、我家では、大学生をかかえており、デパートで洋服などにお金を使う気分にはどうしてもなれない。『どうせ、この鍋でたくのも、じゃがいもとか大根なんじゃろな…』気分はますます下降気味になってゆく。更年期も関係しているのかもしれない。ちょっとばかり華やいだ気分になりたくて、帰宅後、洋物の本を色々取り出してみた。その中の一冊にギリシャ神話があった。ワインをたむけてくれる酒神や、水仙の美少年の頁を開けばよいのに、また今日も古傷を愛しむようにして、あの頁を開いてしまった。プシケとアフロディテのエピソードである。あの可愛らしいキューピッドの母親がアフロディテである。プシケはキュービッドの妻…つまり二人は嫁姑の間柄だ。姑は美人嫁のプシケに嫉妬し、これでもかという程の嫁いびりをする。しかし嫁の方は美しさもさることながら、賢さも運の強さも持ち合わせていた。最後は嫁の勝利に終わり、プシケは幸福な母親となるのである。 私はプシケのように美しくも賢くもないけれど、人並に嫁の苦労を経験した。こんな物語を懐かしんで読む気になれたのも、仏壇のお世話がちゃんと出来るようになったのも、最近なのである。昔のことをあれこれ思い出し、涙ぐんだり、ちょっと腹を立てたりしている内に、時計ははや五時をさしている。私は気をとり直して、少しいきおいをつけて台所に立つと、買ったばかりの鍋で、すっかりロマンス・グレーになったキューピッドの為に、肉じゃがを作りはじめた。