「 カーシャ 」
小倉 弘子(大田区)
久しぶりに大学時代の友人に会った。感動の再会での話題は
『カラマーゾフの兄弟』。数年前に出版された新版がベストセラーになったという。学生時代に戻ったかのような文学談義に、私も読んでみたくなった。
翌朝、さっそく父の世界文学全集を探していると、大切なことを思い出した。数年間の海外生活での結論だ。文化を体感するには知よりも五感である。とりわけ味覚は重要だ。
ならばロシア文学の前にロシア料理ではないのか。そう考えると、いてもたってもいられなくなった。別の本棚からロシア料理の本をひっぱり出し、たまたま家にあった蕎麦の実で、ロシアの蕎麦粥カーシャをつくってみた。
蕎麦の実を水と塩で弱火で炊きあげ、バターをまぶしながら食べる。それは素朴としか言いようのない味だった。不安を覚えてインターネットをみると、あるロシア人が「祖母の家での朝食は必ずカーシャで、子供の頃は好きではなかったけれど今は健康のために毎日つくっています」と書いていた。子供が好きではないということは、積極的に美味しい料理ではないのかもしれない。
しかし重要なのはそこではないことに気がついた。
私はかなりの冷え症なのだが、カーシャを食べているうちになぜか指先に至るまでポカポカしてきたのだ。さすが「ロシアの母」と言われる料理だけある、と思った。ああいう寒い国だから、料理にも寒さに堪えうるための知恵が生きているのだろうか。が、ドストエフスキーの、チェーホフの、トルストイの情熱や才能を支える日常には、この素朴な蕎麦粥があったのだ、と思うと感慨深くないか。いつしかバターをまぜながら味わう蕎麦の実の独特な風味は、ロシアの果てない大地の香りかのように思えてきて、有り難い気持ちになった。少しだけ「つながり」がもてたような気がする。
満足した私は古い文学全集を手にとった。次はボルシチにしよう、と思いながら。