第 3212 号2010.08.15
「 パーコレーターの夏 」
みずき さわ(ペンネーム)
この秋、友人と浅草に出かけた時のことでした。街を歩いていて、古めかしい雑貨屋の奥まった棚に、懐かしいパーコレーターを見つけました。それは、私が子供の頃、父親が愛用していたものと同じに見えました。店の主人が棚から下ろしながら、「珍しいでしょう。最近ではコーヒーメーカーなどで珈琲を沸かすけれど、僕たちの若い頃はこれでしたよ」と、蓋についた埃を布で拭いて手渡してくれました。手にとって眺めながら、私は、パーコレーターで珈琲を沸かしていた父の姿を思いおこしました。
父親は、無口で頑固な人間でした。そしてまたハイカラ趣味の人でもありました。パーコレーターで珈琲を沸かすのを、父は日課にしていたのです。父さん子だった私は、その傍らで、神聖な儀式のような厳かな動作を眺めるのが好きでした。パコパコと珈琲を吹き上げる音と、その香りが好きでした。それに、この道具の構造が不思議で、不思議で仕方ありませんでした。あのパコパコと珈琲を沸かす音が、この不思議な道具の語源だと、かなり後々まで思い込んでもいました。
父は、この道具を子供には触らせませんでした。珈琲は飲ませてももらえません。父の眼を盗んで飲んだ珈琲は、随分と苦い味がして、これが大人の味、外国の味だと、妙に納得したものです。冬は火鉢で、それ以外の季節は七輪で、父は珈琲をいれていました。
夏、汗を流しながら、団扇で七輪に風を送っていた父の姿。今、思うと何とも可笑しくて懐かしい。再会した時代物のパーコレーター。父の匂いがする。父の声が聞こえる。母を呼ぶ声、私を呼ぶ声が聞えてくる。
来年の夏、火傷するような熱い珈琲を、父と一緒に飲もう。それまでは、このパーコレーターを大切にしまっておこう。
その時の珈琲の味は、一体どんな味がするのでしょう。