「 白い犬と白い梨の花 」
伊藤 綾子(千葉県南房総市)
子供が生まれた時、庭に梨の木を植えた。夫婦で「いつか花が咲いて実をつけるといいなぁ」と我が子を胸に抱きながら思いを馳せた。
植樹後まもなくして、近所で捨て犬がウロウロしているという話しがもち上がった。聞けば、人に噛みつくし、大きな声で吠える白い犬だという。
よく晴れた休日、夫が赤ちゃんと一緒に庭で寝ころんでいた。その時、ヴーヴと低い唸り声がした。ハッとして夫が目を開けると、今まさに白い犬が赤ちゃんを襲おうとしていた。夫は急いで手元にあったおつまみのソーセージを遠くに投げた。犬は目的物を変えて、ソーセージの方へ走っていった。機転のきいた判断のおかげで、赤ちゃんは無傷だった。
それからも白い犬は、近所のおじいちゃんの足を噛むなど皆を困らせていた。ある時とうとう誰かが「犬を保健所にやろう。」と言い出した。
シーンと一瞬静まりかえったが、一人、また一人「そうしよう。」と同意しだした。夫はやりきれない気持ちになって「私が飼います。」と言ってしまったらしい。犬は苦手なのに。
それからは白い犬と家族の格闘が始まった。まず首にくさりをつけるだけでもひと苦労。手を噛まれては追いかけ、首輪をひきちぎられては、また近所に探しに行ってつかまえてを繰り返した。夜はつなぐと辺りに響く大きな声で吠え続ける。
果たして飼うと言って良かったのか、家族はすっかり落ち込んでしまった。
そうこうしているうちに1年が経ち、夜鳴き続けなくなり。2年、3年が経ち家族の顔もすっかり覚え大人しい可愛いワンちゃんになった。
それに合わせ植えた梨の木も私の腰の高さだったのが背を越えて緑の葉を生い茂らせた。しかし一向に花を咲かす気配はなかった。
5年が経った頃、白い犬はガンになった。2回に渡る大手術とリハビリを重ね、ようやく歩ける様になった。しかし、8年目再びガンになり9年目に息を引きとった。
赤ちゃんの頃から一緒だった娘は今まで見たこともない位泣きじゃくった。
その年の夏、庭の梨の花が咲いた。白い犬は生前この梨の木の下でひなたぼっこをするのが好きだった。そして今この梨の木に眠っている。梨の花は白い小さなおだやかな花だった。娘が「ワンちゃんの花だ。」と嬉しそうに見つめていた。