第 3189 号2010.03.07
「 口は食べるためにある 」
匿 名
ある日、聖徳太子が口は食べるためにある―と言ったのだと、次女が私に教えた。
それを聞いたとき突然、自分が誰かに物を尋ねるとき、的確な答えを求める聞き方をしてはいないと思いあたった。
なぜなら、いつも思いつくままに言葉が口をついて出るものだから、必ずといってよいくらい相手を不愉快な気持ちにさせてしまうからだ。言葉を選んで、どうしたら相手が気持ちのよい答え方ができるだろうかと、また自分にとって少しでも有意義な答えを引き出せるのか、そんなことを考えて、相手に対したことがなかったのではなかろうか、と。
特に子どもたちに対してはこの傾向がはなはだ強いようだ。それをふまえてか次女は何気ないふりで私に教えたかったのかもしれない。
気がつくといつもお喋りの中心のような自分自身の姿が浮かんでくる。答えもきちんと考えて返答したい。相手がなにを望んで質問してきたのだとうかと。
気がつけばただのおばさんにどっぷり胡坐をかいている自分がいる。もう年なのだからと、軽いテンポのおしゃべりに現を抜かしていた私。
これからは、相手の望むような答えのできるちょっと光るような人間でありたいとその日、とても深く反省した。