「 きかれる私 」
柳瀬 志保(松本市)
よく道をきかれる。しかも、それが旅先の、どちらかと言えば私の方が道を聞きたい様な土地で起こる。それは県境どころか国境も越え、韓国の地下街では女性に何かの場所を尋ねられ、マレーシアのデパートでは老人から駅に行く出口をきかれる。博多駅前では、中学生の少女から「チクシグチ」を教えて欲しいと言われる。
こんなやりとりがある度に、私はそんなに地元民然として見知らぬ町を歩いているのだろうか、と困惑する。我がもの顔で道を歩いているのだろうか、と自分を省みる。だが、不思議なのは、友人や家族と一緒に歩いていても、私だけが道をきかれるということだ。
博多の時など、地元出身の夫が私の真横に立っていたので、彼に質問してもらいたかったくらいだ。少女よ、何故私に?
ひとつだけ思いあたることは、初めての場所に行くと私は、できる限りその町の地図を頭に焼きつける様にしているということだ。
宿泊先の周辺であったり、その日訪れる場所までの道程だったりと様々だが、地図を開きながら歩かずにすむ様、出掛ける前にじっと地図を眺めて道を覚える。そうすると、初めての土地でも戸惑うことなく、確信を持って歩くことができる。もしかしたら、そんな心もちが私の足どりに現われているのかもしれない。
が、地図にないことも尋ねられるということを、つい先日体験した。アメリカのとある町で日用品店に入ったところ、前を歩いていた女性が突然ふり返り、私に、今日の閉店は6時半だったかしら、ときいてきたのだ。果たして私は、自動ドアを入る時に、ドアに表示された営業時間を何の気なしに見ていた。今日は7時半までですよ、と答えた私を見て、今回も真横に立っていた夫は、どうしてそんなに人からものをきかれるのかね、と半ば呆れて呟いていた。夫よ、私がそれをききたい。