第 3174 号2009.11.22
「 春隣 」
この度の、森繁久彌先生ご逝去の報に接しまして心より哀悼の意を表し、かつて先生よりご投稿を頂きました2作品を2週に亘り特別再掲載させていただきます。
春隣 「名曲の夕べ」(現「風の詩」)第1473号掲載
その人とは一度も口をきいたおぼえがない
時に見せる するどい眼とギン張った顔
ひくいバスの話し声を忘れてはいない
二十年近く前 若い私は
この銀座裏の喫茶店で
色んな人を待ち 話をし 忘れていった
春近い 今日
私は その隣りの歯医者にゆき
すでに老いぼれた 前歯を三本もぬき捨てた
マスイのしびれる口に
懐かしいコーヒーをすすった
ふと 見ると
奥まったテーブルに 頭の白くなった
その人を見つけた
昔の眼は やさしそうで 聞きおぼえのある ひくい声は
時々咳こんで
その人は ひとりで コーヒーをのんでいた
森繁久彌
1977.2.24 ウエストにて