第 3108 号2008.08.17
「 さくら貝 」
下 林 としえ(東京都国立市)
なだらかな坂道を下ると、道はTの字になり、片隅にバス停のある海岸沿いの道路にでる。バス停には海に向かってベンチがひとつ。本数も少ないバス停は、ひっそりと静か。左手に天神さまの岬がみえ、道路の向こうに海が広がる。
暑さが和らぎ、夕日が西に傾くころ、少女は老いた祖母をつれて、よくそのバス停へ行った。もう、遠くまで歩けなくなった祖母は、そこまで来るとベンチに腰を下ろして、海を眺める。おだやかな夕凪の海を。
ベンチにゆったりと腰を下ろした祖母が、両手を杖に掛け、休息のポーズに落ち着くのを見届けると、少女はひとり浜辺に下りて、渚を歩む。祖母が目の届くところ、安全圏内にいる、ということが、少女に安堵の解放感をもたらす。祖母の幸せそうな様子が何よりもうれしい。
渚で、少女は無心に遊んだ。鋏を挙げて逃げ出すカニを追いかけたり、浜辺を撫でているようなやさしい波の動きに見惚れたり…。突然、少女がよろこびの声をあげる。
「あった!」
足元の小石の間に、見つけた!花びらのような、 さくら貝。
波に揺られ剥がされて、素肌になった貝殻が、夕陽につつまれた手のひらの上で、可憐に光る。
夕映えはさざ波にのって西の空から続いていた。空も海も金緋色に輝き、少女はバス停へ急ぐ。ベンチに腰掛けて待っている、祖母の許へ…。
小函は、さくら貝でいっぱいになっていた。手に取ると、ひとつひとつ思い出が甦ってくる。祖母と過ごしたさまざまな日々。
祖母が待っていてくれた夕暮れのバス停…。いっしょに喜んでくれた、色白の柔和な笑顔…。
少女は、時が経つのも忘れて見入る。
淡いさくら貝の輝きなかに、祖母が感じられて…。