「 剃刀の温もり 」
新 月(ペンネーム)
カランカラーンとドアの鐘が小気味よく響き、女ひとり、生まれて初めてその空間に足を踏み入れる。目の前が真っ白になって何も見えない。慌ててめがねを外すと、白い泡を顔にのせて寝ている殿方、その顔に吹きつける蒸気。床屋の湿気が私のめがねを曇らせたのだった。
知人から手に入れた女性用「お顔剃り」の割引券を握りしめて乗りこんだその床屋は、東京の下町にあった。日曜日の昼下がりとあって一番奥以外は満席。曇りのとれためがねをかけて待合室に座り、あらためて店内を見渡してみる。椅子に座ったままのシャンプーや耳かきの光景が珍しい。目の前のテーブルには丁寧に封を切ったマイルド・セブンが、汽車の形をした木製の箱にきちんと収められている。たばこを吸わない私でも手を伸ばしたくなるような気安さに心が和む。
案内されたのは空いていた一番奥の席だった。椅子が倒されて目を閉じる。これから剃刀というメスで手術を受ける患者になったように突如不安が襲う。そういえばあの床屋の看板の赤と青は元々動脈と静脈を表していたとか…。メスと血のイメージですっかり臆病になった私の顔に、ふいに温かくて柔らかいものがのせられた。冷たいとばかり思っていたあの白い泡が人肌に温かかったのだ。そして剃刀のあたり具合もまるで鳥の羽になでられているようで、くすぐったいほどに優しい感触であった。不安な気持ちはいつしか立ち消え、パックやマッサージ、眉毛のカット、耳掃除までしてもらってすっかりその心地よさに溺れてしまった。
世の殿方がこんなにいい思いをしていたなんて!初めての床屋を後にしながらつくづく感じ入り、磨き抜かれた我が頬の感触を楽しみながら駅までの道を歩いた。夕刻の商店街は親子連れやお年寄りで賑わい、焼き鳥屋の甘辛い香りに私はいつまでも追いかけられた。