「 夢見るころを過ぎた夢 」
工藤 誉伸(札幌市)
物心ついてから、40年以上夢を見てきた。もちろん就寝中に見る方の夢であり、見果てぬ夢の「夢」ではない。たしかに、そんな夢を40年以上見果てぬばかりに抱き続けていたらなぁと、ボンヤリしたくなる気もするが、これまたどうしようもなく夢である。
いや幻というべきか。
それはともかく、夢枕の夢のことで、不思議に思うことがある。
なぜ夢に出てくる庭は、10代までしかいなかった郷里の実家の庭ばかりなのか。なぜ玄関も居間も、多少アレンジされているにはいるが、やっぱり実家のそれなのか。なぜ20年ものローンを組んで人生最大の借金をして取得したマイホームの庭でも玄関でも居間でもないのか。費用対効果の面から考えると、とんでもない話である。ほとんど詐欺に近い。といっても、自分が自分を騙しているようなものだからしかたがないのだが、でも釈然としない気分である。
そもそも記憶は古い順に消え去るのが道理である。それに、身銭の、それも高額の出費は、人の精神深部にまでズシリと影響を与えるのが常である。にもかかわらず、夢だけは、のほほんと反逆する。
さらに思うに、夢に出てくる景色は、その「家」も含め全般的に似通っているような、つまり同じ舞台だけを回しているような気がしないでもない。原風景とかいうヤツだろうか。だとすると、私がこれまでの人生で見てきた様々な風景、その中には脳裏に焼きつくほどの絶景もあったはずだが、それらは記憶の表面をかすっただけだったのか、あの感動は眉唾だったのか、とも思えてくる。
夢とはさように理不尽なものである。
でも、だから、こうもいえるだろうか。理屈偏重のこんな時代だからこそ、夢はその理不尽さにより、時間やお金にあくせくする私に深夜ガツンと頭突きをくらわせてくれているのだと。うーむ。でももう私の実家に、庭は残ってないんだけどなぁ。