「 タクシーと家出とチョコレート 」
匿 名
大学時代の友人と久々に会って食事をし、いささか盛り上がり過ぎた為終電に乗れずタクシーで帰宅した夜のこと。
やっと捕まったタクシーに乗り込み「山手通りに入って初台方面へ進んで下さい」と伝えると「えっ山手通りってどうやって行けばいいですか?」
という返事。頼りない運転手にうんざりしながら適当に道案内をし、シートに身を埋めた。
「この辺の地理に詳しくなくて…」すまなそうに言う初老の運転手に「この辺りは普段通らないですか?」と何気なく問いかけると、彼は「ええ、いつも違う所を走っていて今日は初めてお客様をこっちまで送って来たんでね。それに東京に出て来たのも最近だから…」と話し始めた。
聞けば、ずっと北陸の方に住んでいたが数年前出稼ぎ…というか家族を捨て家出同然で上京し、このタクシードライバーの職に就いたそう。
彼がたまたまこの車に乗り込んだ何者かも知れぬ私に、自分の仕事や生活、置いてきた家族についてまで話してくるのを不思議な気持ちで聞いていた。
「こんな親ですけど子供の事は心配ですよ、いくつになっても。夜遊びしてないか、とかね」と私の方をちらっと見て笑った。その時見えた彼の目尻の皴に、なぜか懐かしい気持ちになった。
思えば見ず知らずの二人がこの夜、この狭い空間を共有している。その偶然に思いを馳せていると車が自宅近くに到着した。
料金を支払いながら、二度と会わないであろう彼に何らかの気持ちを示したいと思ったが、お釣りを渡すというのも何だか気がひけた。
「甘い物、お好きですか?」脈絡のない私からの質問に一瞬驚いた顔をしたものの、直ぐに人懐こい笑顔で「大好きですよ」と言ってくれたので鞄に入っていたチョコレートをトレイの上に置いて車を出た。
振り返ると『支払』の表示のまま車を停め、ニコニコ微笑みながら私が見えなくなるまで見送っている彼がいた。