第 3062 号2007.09.30
「 母のスニーカー 」
にしもとあけみ(ペンネーム)
母が怪我をした。外出先から戻った時、玄関のステップでころんで足をくじいたのである。大事にはいたらず、ほっとしたものの、79歳になる母に私は言った。
「ねぇ、もういいかげんにヒールのある靴を履くのをやめたら」
母はおしゃれである。美人の母は、外出時にはスーツを着て、ヒールのある靴を履くのが常である。
十年ほど前、母と海外旅行に行ったが、スーツケースを開けて驚いた。
「この服には、この靴とバッグ」というように、たくさんの服とともに、いろいろな色と形の靴やバッグがぎっしりと詰まっていた。どうりで重いはずである。空港から、私のガラガラの軽いスーツケースを母にひかせ、私はやたら重い母のスーツケースを不審に思いながらひいていた。
正体はこれだったのかとあきれる私に、母は悠然と言った。
「あなたも少しはおしゃれしたらどうなの」
なぜかパンツルックは好まない母には、平べったいぶこつな靴など気に入るはずがない。どうしたものかと考えながら街を歩いていた私は、ショーウインドウの中にあるスニーカーに目をとめた。色は、指先も染まりそうな山ぶどう色で、形もこじんまりとしてシックである。私はこれだと思った。
帰りに早速、近所に住む母の所へ届けに行った。
「スニーカーなんて嫌だわ」
と言いながら箱を開けた母の目が一瞬明るくなった。興味がある様子である。私は黙ってすぐ帰ったが、数日後、駅近くを歩く母を見た。なんとあのスニーカーを履いているのである。薄紫のパンツに、あの山ぶどう色のスニーカーを履いて、足取り軽く、楽しそうである。私はほっと胸をなでおろし、店のかげから、思わずニヤッと見守っていた。