第 3055 号2007.08.12
「 時計草 」
西本 明未(ペンネーム)
今年のお盆も、母と娘と私の三人でお墓参りに行った。思えば、私の若い頃は、祖母と母と私との三人でお墓参りしたものだった。三代で出かけることは、あたりまえのようになってしまっていたが、私の二十歳の娘も自然と一緒にお墓参りするようになっている。
娘は水桶を持ち、私がお花とお線香を持ち、老いた母が先頭になり、まっすぐ墓地を歩いて行く。静かでいとおしいような時間。今はもう亡くなってしまった祖母の墓前に、私たちはそっと手をあわせる。薄曇りの中、時折柔らかな陽射しが、思いだしたように降り注ぐ。娘のひしゃくを持つ細い腕が、こきみよく動き、墓石にかかった水が、きらりと光った。
いつか母や私がいなくなっても、娘も子供や孫と一緒にお墓参りするのだろうか。
(命が続いている)
ふと、そんな気がした。私という肉体がなくなっても、確かに娘の体には、母や私の血が流れている。そして、娘から孫へと、細い糸のようにどこまでも続いていく。
「あ、時計草」
墓参りの帰り道で、母が植え込みに咲いている草花を見つけた。
「へぇ、時計草っていうの、これ?」
娘が母に尋ねている。
白い花びらのところに、放射線状に青く蛇の目のように広がっている部分があり、その上にまるで、時計の長針と短針のように見えるおしべとめしべがある。可憐な花というより、ユニークで、どこか未来の花のようだ。
娘の子や孫も、この花を見て、不思議そうに、三人で取り囲み、話をするのであろうか。
時計草は、ただじっと私たちを見ている。壁掛けの時計盤のようだ。
耳元で、時刻を刻む音が聞えた気がした。