第 3053 号2007.07.29
「 終の棲家 」
中野 竜也(ペンネーム)
今のマンションに不満があるわけではない。駅からは近く環境も抜群。
それに、新築なので設備も整っている。― 床暖房、浴室乾燥、食洗器。
新しい住まいの三種の神器といってもいい。
にも拘わらず転居を決めた。転居先のマンションは古いし駅からも遠い。三種の神器だって何ひとつない。だが、素晴らしいものが一つある。
初めてこの家のリビングに足を踏み入れたとき、私は息をのんだ。
7階のテラスから見下ろす雄大な眺望。眼下に悠々と流れる多摩川。
河川敷では少年たちが野球をしているのが胡麻ツブのように見える。川向こうは川崎市だろう。夕陽を受けて、白いビル群がマシュマロのように輝いている。不動産屋が並べるセールストークを聞き流しながら、私の心は別のところにあった。
リビングの揺り椅子に深々と身体を沈め、コーヒーカップを手にぼんやりと窓の外を眺める。BGMにはベートーヴェンの交響曲6番が流れる・・・
70も近くなると、視力も聴力も衰える。できることなら、残る人生、本物を見、本物を聴く機会を増やしたいと思う。あのリビングから鳥瞰する悠久の流れは本物に違いない。交通の便は悪く、生活の快適さも失われるだろう。だが、窓の外には1年・365日、本物の眺望が私を待っている。
人は「老い」を避けることはできない。それでも、可能ならば美しく老いたいと思う。そのための条件は、本物を見、本物を聴くことではないのか。あのリビングから毎日窓の外を眺めていると美しく老いることができるような気がする。