第 3032 号2007.03.04
「 三椏(みつまた)の花 」
新 月(ペンネーム)
冷たい雨が飽きもせず降り続いた一日の終わり、丸の内にある職場から帰路につこうとした時でした。いつものように、結わえていた髪をほどきながらガラスの自動ドアから外へ出て、傘をさそうと立ち止まると、道の向こう側に白い花をつけた木が雨にけぶってぼんやりと
立っているのが目に入りました。その正体を見極めようと、ビルの谷間の細い道を渡って近づくと、白ではなく淡い黄色の花をつけた三椏でした。
コウゾ、ミツマタ。小学校で和紙の原料として呪文のように覚えたその植物を初めて見たのは、数年前、山陰の小京都、津和野へ旅した時でした。石見和紙の製作を実演していた薄暗い小屋で、初老の職人が壁に吊るされた木の枝を指してその名前を教えてくれたのです。つるつるとした木肌で、枝はきれいに三つに分かれ、カラカラに干されたこの植物があのミツマタかと、初めて見たのに不思議と懐かしい気持ちで見入りました。春になるとその枝の先に薄黄色の可憐な花をつけるとは、その時は露知らずに。
そびえ立つ鉄筋コンクリートとガラスの高層ビルに高架線が直角に交わり、その下を自動車と人々が慌しく通り過ぎていくこの場所の日常の風景。それでも秋の朝には、街路樹の銀杏がビルの隙間から差す朝日に照り生え、狭いながらも澄みきった青空を鮮やかに彩ります。
その列をなす銀杏ほどには絢爛たる装いを期待できるとはいえない、この都会には珍しい低木を、一体どんな人がどんな思いで植えたのでしょうか。
梅花藻のたゆたう清流が流れる津和野の町、その町をぐるりと囲む深山、そして今その山のどこかでひっそりと芳香を放ちながら咲いているかもしれない三椏の花 ― 。目の前の雨に濡れた花弁にそっと触れ、少し秘密めいた気分でひとり、家路を急ぎました。