第 3029 号2007.02.11
「 昼下がりに 」
はしもとのり子(渋谷区)
ティールームで隣の席の話し声が耳に入った。言葉に関西地方のアクセントがあり、母と娘のようだ。どうやら五十歳位と思しき、娘さんの方に急用の電話があったらしい。
「ごめんな。駅までちゃんと送って行きたかったんやけど」
「ええよ。ええよ。あんたもいろいろあるし忙しい。早よ行き。気いつけてな」
「そんなら、そうするわ」
「ああ、いつもみたいに新幹線にちゃんと乗ったかどうか電話かけてこんでもええよ。出られへんかも知れんし。あんたは心配せんと用事してたらええ。気いつけて行くんやで。急いだらあかん。ゆっくりあわてずやで。」
上京していた母親が帰る日なのだろうか。別れに娘は母を気遣い、母は娘に何度も何度も「気いつけてな」を言う。
不意に ― 1年半前に亡くした母の面影が浮かび、よみがえった。関西生まれの母も、いつも、いつも「気いつけや」「気いつけて行くんやで」と、出掛けには、くどい程言ってくれたっけ。その時は「はいはい」と流して聞いていたけれど。
その母の声を「ずっと聞いていない。もう聞けないのだ」と思った瞬間、目頭が熱くなり涙までもこぼれそうになり、あわててカップに目を落した。紅茶の深い赤が秋の日差しと溶け合い、にじんで広がった。
「お母さん。もう一度言って。もう一度あなたの『気いつけてや』を聞いてみたい」
うつむいたままで切に願っていた。
やがて隣の席では娘が立ち上がり「先に出るけど、ゆっくりしててや。じゃあね。」と手を振った。その背中を又やさしい言葉が追いかけてゆく。「ともかく気いつけて行くんやで。」
母親の有難さが溢れて陽だまりになった午後だった。