第 3015 号2006.11.05
「 浮かんだり沈んだり 」
八 木 文 子(品川区)
秋の日のこと。
橋の上で川に向かってカメラを向けているおばあさんを見かけた。小柄なおばあさんの小さな手のなかにあったのは、望遠のついた立派な一眼レフである。欄干に寄りかかるようにしてファインダーを覗いていたかと思うとふっと流れを見る。なんどもそれを繰り返している。
なにがあるのだろうか、と私も川を覗き込んでみたが、魚がいるわけでないし、流れになにか変化があるわけでもない。
気になって「なにを撮ってらっしゃるんですか」と訊ねてみた。
こちらに向き直ったおばあさんはあったかそうな帽子のなかのちいさな顔をほころばせて「川に落ちた桜の葉が撮れるといいなと思って」と答えた。
川沿いに植えられた桜はまだ落葉しきってはいないが、赤や黄色い葉っぱは風に吹かれて次から次へと流れへと舞い落ちている。
「もう何年もここで撮ってるんですけど、全然気づかなかったの。赤い葉っぱがね、浮かんだり沈んだりして流れているの。それってまるで人生みたいでしょ」とおばあさんは笑う。
人生の時間の色合いはさまざまに変わる。流れに乗って浮かんだり沈んだりする。
「でもなかなかうまく撮れなくてね。思案してるところなの」と言いながらも楽しげだ。
「もう人生に卒業してもいい歳なんですけどね」と言っておばあさんはまた笑う。
「わたし米寿なのよ、八十八。もうじき九十です」そんなふうには見えない。
「七十歳で雑事が一切おわってひとりになりましたの。そのときからカメラを始めました。もうずいぶん写真も溜まって、いろんなかたに見ていただいたりしてます。これはいまはやりの癒しっていうんでしょうか。生活が変わりました」
それがおばあさんの人生。浮かんだり沈んだり。