「 子供が移動教室に行った日 」
岩 本 勇(杉並区)
小学五年生の一人息子が、移動教室で富士山の麓へ二泊三日の日程で出かけて行った。
私と妻が二人きりで一つ屋根の下で時を過ごすのは約十年ぶりのことだ。夫婦なのに、何故か最初の日は落ち着かない心持ちだった。
二日目の朝、私は妻に提案した。
「どう?今晩久しぶりに飲みに行かない?」
二人とも外でお酒を飲むのが大好きで、知り合った頃はしょっちゅう夜の街へ繰り出していたものだ。しかし、子供が生まれてからというもの、そんな機会は全くなくなり、三人で外食してもゆっくりお酒を楽しむなどというムードではなかった。
それが今日久しぶりに実現しそうだ。しかし、そう口にしたものの、あっさり妻が了解するものとは私は思っていなかった。近年、経済的苦しさやお互いの子育てに関する相違からぎくしゃくした空気が日常的に漂っていたからだ。だが、妻は意外にもあっさり「いいわね」と口にした。
その日の夕方、隣街の駅ビルの本屋で待ち合わせをした。昔デートを繰り返していた頃は十分、二十分遅れるのは当たり前の妻だったが、その日は珍しく定刻ちょっと過ぎにやってきた。そのスタートからして気分のいい滑り出しだったのだが、二軒目の、昔二人でちょくちょく暖簾をくぐっていた、旨い魚を食べさせる店に行くと、マスターが「昔と全然変わってないね」と妻のことを評した。私は知人などとはその店に頻繁に来ているのだが、「マスターの奴、ヨイショしてるな」とはもちろん口にしなかった。
その店で知り合った常連さんたちと笑い声と共に遅くまで飲んでいたのだが、途中から雨が降り出してきた。
雨はお開きになっても止まなかった。
私と妻は、妻が用意してきた一本の傘で相合傘になりながら駅までの道を歩いた。
しかし、若い頃のように彼女の肩に手を回すのは、さすがに躊躇われるものがあった。