第 2955 号2005.09.11
「 八分目で充分 」
小林 みよ子(世田谷区)
喜寿ともなればかなり耳が遠くなった。困ったと思いながらも、遺伝だと諦めれば、むしろ折々には耳の遠かった晩年の父が懐かしい。
近頃、若い人達の高い音声の早口にはついて行けない。芝居やテレビドラマも、科白の隅々まで聞き取れず、構成の苦心の細部を味わい盡していないもどかしさがある。
小人数の談笑の時に、恥を忍んで「よく聞えていない」と訴えても、いつの間にか仲間の外に置かれている。本来、雑談での語り手は、自分の言葉を、自分の声の高さ、音量、スピードで話すことで、無意識のうちに楽しんでいる。意識的に声を大きくしたり、テンポや言葉を選ぶことは不自然で圧力になる。
だから他人には無理を望まず、「プラス2」の勘を働かせて、八分目の理解でも一緒に笑っていればよい。
幸い眼には問題がない。先日のような良夜には、月と火星に向き合って宇宙の果からの波動と響き合えるものがあった。又、この世の外に旅立ってしまった懐かしい人達が、深い想いの語りかけに、しみじみ答えても呉れた。遠く遠くまで連なる空の下、平和な暮しを失ったアフガニスタンやイラクの人達にも、心をこめたメッセージが送れた。
台風の日には、四階に住む私の目線より高い喬木が、全身を強風に委せながら、大樹に成りおほせるまでの来し方、自然との苛酷な戦いを語ってくれた。道端の名もない草の花々も、余生大事な年寄りにやさしい万の言葉を聞かせてくれる。
心のうちに、森羅万象に向き合う深い想いがあれば、いつでも、限りなくロマンティックな会話で心を満たすことができる。
食べものは八分目。行動も八分目。望むことも八分目。それで充分に幸せであることに気付いた。
万事あるがままに受け入れる自然体。
これが所謂年の功と言うものだろうか。