「 共感(シンパシー) 」
山本 洋子
電車の脱線転覆事故が起きた。大変な事故である。
40前ほどの聡明そうな女性が夫を亡くし、自宅でインタビューを受けているのをテレビで見た。周りを気遣ってか、それが彼女の癖なのか、悲しいことを話すのに彼女は微笑んでいた。彼女ら夫婦には子供がなく、夫婦二人の生活だったという。「まだぴんと来ないんですよ。
もういないってことが」彼女は洗濯物を手にして言った。「こうして洗濯物をたたんでいても、もう着ないのかなって・・」私は涙やら鼻水やらを止められなかった。彼女の「もう着ないんだ」ではなく「もう着ないのかな」という言葉に、まだわかない実感と、やがて波のように訪れるであろう深い悲しみが横たわっていたからである。鼻をかんでいる私の傍らいた高三の長男が、見るとはなしに私を見て、何も言えず、のびをしたり冷蔵庫を開けたりして困っている。
事故や病気などで家族を失った人、絶望的な状況にある人を見ると、私はどうしていいかわからなくなる。この人達の哀しみはどれほどか、この哀しみはいつか癒えるのか、そして何が癒すのか。自分に何が出来るのか。
以前、そんな私に長男は言った。「世界中のどこかで、毎日事故や事件は起きてるし、人死んでいる。世界中に共感してたら心がいくつあっても足りないんじゃないか」彼は付け加えた。「しょせんは他人事なんだから、自分は無事で良かった、でいいんじゃないか。母さんは共感能力が高すぎ。」怒ったような表情に彼の優しさが見てとれた。中三の次男は素直に母を弁護する。「お母さんはカウンセラーだから共感できないとだめなんだよ。」そんなこともあった。
主人はテレビの映像に短く手を合わせ、私のほうに向いて、教皇庁(バチカン)の法王のように両手を差しのべて「祈りましょう。」と少しおどけて言った。
彼は多く語らないが、被災地に募金をしている。ユニセフからも何度かお礼の封書が来ていた。我が家の男性達は、実は私よりずっと共感能力が高いのかもしれない。