第 2935 号2005.04.24
「 春とパン 」
入江 由希子(ペンネーム)
イギリスの伝承に「イーストがふくれる奇跡。これぞ、ミニチュアの春。」とあり、自宅で初めてパンを焼いた頃のことを思い出しました。
まだ小学生になったばかりだった娘もエプロンと三角巾を見つけ、材料の計量から始まる一連の行程を一緒に取り組みました。こねるのも、発酵具合をみることも、成型もすべて手作業でしたが、「料理は五感を働かすものよ。」と、母から言われたことを実感したものです。小さな娘の手が一心にこねたパン生地は「イーストの奇跡」で大きく膨らみ思わず歓声をあげました。
私が子供の頃に比べれば、焼きたてのパンを売る店はデパートばかりではなく近所にもずいぶんと増え、贔屓にしている店やお気に入りのパンもありますが、焼きたてのパンを熱々のスープや料理と共に食べることができたらとチャレンジしたパン作りです。「本当においしくできるかしら?」という心配も、作る過程の愉しさを味わうなかで、すっかり消えてしまい、私と娘の気持ちも丸く大きく膨らみました。
夕食時、家族が揃う頃には焼きたてのパンの香りが流れ、「ただいま」
の声と共に「おいしそうな匂い!」という食べ盛りの息子と夫の声がし、パン作りの愉しみを満喫したその日の食卓は一層明るく暖かで、まさに「春」のようだったことが思いだされます。
あれから10年余りが過ぎ、今では家族がそれぞれ忙しい毎日を送るなか、食卓を揃って囲むことが少なくなってきたのは淋しいことですが、パンを焼くたび流れる良い香りと温かな気持ちは変わることはありません。もっとも、食べ盛りは息子から娘へと移っていきましたが…。
この初めて作ったパンはいつしか家族から「小春ちゃん」と名づけられ、わが家の定番となりました。